テナーの巨人、デイヴィッド・S・ウェアのカルテットは、15年前から今日の最高のジャズバンドのひとつとして活動してきました。デイヴィッド・S・ウェアはアメリカとヨーロッパをツアーし続け、 DIWから多数のレコードも出したにもかかわらず、今まで日本でライブをする機会がありませんでした。是非彼が日本でライブを出来るための条件を集めたいと思います!

問い合わせ: Anne Dumasマネジャー: mejmej@orange.fr (英語、フランス語)
dsw.japan@gmail.com (日本語)

2010年10月10日 更新





2007年10月10日水曜日

David S. WARE 紹介


写真 Dmitriv Matvejev, Vilnius, 2007.03.24
デイヴィッド・S・ウェアは1949117日ニュージャージー州プレインフィールドに生まれる。高校時代に出会った熱心な教師たちの影響で、彼の音楽へ の愛は育まれた。 彼はアルトからサックスのキャリアを始め、後バリトンへ、そして最終的にテナーを自らの表現手段に選んだ。
10代のとき、デイ ヴィッドはソニー・ロリンズの熱烈なファンであり、60年代の半ばには彼に会うためにファイヴ・スポットやヴィレッジ・ヴァンガードに 通い、後にその先輩テナープレイヤーと演奏することになった。二人は70年代を通して、断続的にだが、おりをみてはロリンズのアパートで共に練習した。 1966年、若きウェアに循環呼吸を教えたのはロリンズだった。


デイヴィッドはボストンの音楽学校に通い、スタントン・デイヴィス、セドリック・ローソン、アート・ランド、マイケル・ブレッカーらとローカルシーンでプレ イしていた。マイケルの回想によると、「デイヴィッドのプレイを聴いたときには、どれほど熱狂したか思い出すね・・・僕らは1718くらい、彼はものす ごい才能の、芸術的で創造的な存在だったね__僕らみんなのインスピレーションだったよ」 ボストン時代、デイヴィッドは、ドラムのマーク・エドワーズ、 ピアノのジーン・アシュトン(現クーパー・ムーア)に出会い、メアポジー(「頂点」という意味)モというグループを結成した。


70年代:テイラー、シリルとのコラボレーション

1973年までに、 デイヴィッドはニューヨークに移り、ミュージシャンたちの仲間となった。そこには、サム・リヴァース、デイヴィッド・マーレー、バッ チ・モリス、アーサー・ブライス、ドン・プーレン、ラシッド・アリ、フランク・ロウがいた。いわゆるロフト・ジャズのグループの彼らの間で、卓越した テナープレイヤーとしての彼の噂はただちに広まり、結果としてきわめて重要な機会を嵐のごとく経験した。彼はセシル・テイラー・ユニットに加入することに なったのである。そこには、マーク・エドワーズ、トランペットのラフェ・マリック、アルト・サックスのジミー・ライオンズがいた。彼はテイラーの伝説的な メカーネギー・ホール・ラージ・アンサンブルモで演奏した。「ウェアのサウンドの独自性とゴスペル歌手のような熱情は、彼が25のとき、忘れもしない、 1974年テイラーのメカーネギー・ホール・ラージ・アンサンブルモで演ってたときから明らかだよ(ゲイリー・ギデンズ Village Voice』,20018月号)」 ウェアはメセシル・テイラー・ユニットモとともにアメリカ、カナダ、ヨーロッパ各国にツアーを回った。そのグループ で彼はダーク・トゥ・ゼムセルブスEnja)という一枚のアルバムに参加した。のちには、ビーヴァー・ハリスがエドワーズに代わりドラマーとなった が、デイヴィッドはハリスのメ360ディグリー・ミュージック・エクスペリエンス・アンサンブルモに参加している。また同じときデイヴィッドは、最高のド ラマーアンドリュー・シリルのグループメマオノモに参加しはじめた。

1981年までには、既にマオノセシル・テイラー・ユニットのメバーとして、またバンドのリーダーとしてもヨーロッパツアーを何度もおこなって いた。当時のメンバーはハリス、アシュトン、ベースのブライアン・スミスだった。彼はそのときまでには、“メタミュージシャンズ・ストンプ”“スペシャ ル・ピープル”(ともにBlackSaint)を含むメマオノモの3枚のレコーディングをおこなっていた。


70-80年代:「バース・オブ・ア・ビーイング」から
「パッセージ・トゥ・ミュージック」まで

そして
1981年、彼はリーダーとし初のレコーディングアルバム、“バース・オブ・ア・ビーイングHat Hut)をエドワーズ、アシュトンとともに完成した。80年代はじめ、ミルフォード・グレイヴスと演奏した。1985年、自己のトリオのヨーロッパツアー では、ベースをピーター・コヴァルド、ドラムをルイス・モホロ、サーマン・バーカーが務めた。彼はその後、トランペットのアーメッド・アブダラのバンドメ ソロモニック・クインテットモに参加し、セルフタイトルのアルバムをSilkheartで録音した。
写真 Luca D'Agostino, Cormons, 2002.10.24

のキャリアにおいて、80年代は大きな転機となっている。インプロヴィゼーションのスタイルが、以前の攻撃的で疾走感のあるフリーインプロから、テーマ中 心のものへと次第に展開してきた。1988年には、マーク・エドワーズと卓越したベーシスト、ウィリアム・パーカー(当時テイラーのグループの多くに参加 していたことで知られる)を迎えトリオを結成、Silkheart“パッセージ・トゥ・ミュージック”を録音した。1989年、彼がパーカーとレジー・ ワークマンにピアニストを探していることを話すと、彼らはそろってマシュー・シップを推薦した。「デイヴィッドがコンタクトを取ってきて、僕たちは一緒にプレイし始めた。僕はウェアの曲の大ファンだったんだ。彼とは本当にくつろいでプレイできるんだ。僕のピアノのスタイルは彼の曲と相性が良いね。彼は自由にやらせてくれるし、完全に制限はないね。」


デイヴィッド・S・ウェア・カルテットのデビュー

1989年になってデイヴィッド・S・ウェア・カルテットが誕生した。現在に至るまでメンバーの入れ替えはドラマーだけだった。マーク・エドワーズに替わって1992年に ウィット・ディッキーが、そして1996年からスージー・イバラがドラムを務めた。ウェア曰く、「だんだんと、一つのグループを存続させることの価値がわ かってきたんだ」「14 バンドのサポートをしてるより、グループを組織化するべきだろ。ここ数十年のジャズを振り返ってみても、それが音楽を発展させる 一番のやり方だと感じるね。うすっぺらな表層をすくいとるかわりに、素材を知って参加していくことで、完璧なものをつくるチャンスをミュージシャンは手に 入れる」 ウェアは音楽的な理想を妥協するよりは、忍耐を選んだ。また、彼はサポートとして演奏することを拒否していた。「他のミュージシャンたちと演奏 することは僕には意味が無い。自分の哲学として、誰かの傘下に入るなんてことは難しいね」

1990年代には、グループが完全に安定していき、デイ ヴィッド・S・ウェアがサクソフォンの真の「巨人」として評価されるようになった。デイヴィッド・ S・ウェア・カルテットは革新的なアルバムの数々を、早いペースでリリースした。Silkheartから“グレート・ブリス・ヴォリュームス 1&2”を、日本のDIWから“フライト・オブ・アイ”“サード・イヤー・レシテイション”“アース・クウェイション”“ゴスペライズド”を、アメリカの HomesteadAUM Fidelityからはクリプトロジー”“ダオ”と“ウィズダム・オブ・アンサートゥンティ”をリリースした。


1997年:コロンビアとの契約

1997 年、デイヴィッドはブランフォード・マーサリスによってColumbiaと契約することになった。「ブランフォードがショー(1995年、フラン スのビエンヌ)を見に来てくれたんだ。今までには聴いたことなくって、心から感動したって。彼は本当に熱狂してたよ。」 二年後、ブランフォードが、 Columbia アーティストのコンサルタントの役職についたときに、ウェアと最初の契約を交わした。「ミュージシャンたちが心配するのは、一旦メ ジャーレーベルと仕事をしちまうと、自分の音楽をねじまげなくちゃいけないってこと。でもブランフォードは、ヤ何も変えなくていい。自分らしいプレイを続 けてくれユって言ったんだ」
1998
年には、Columbiaからのファースト“ゴー・シー・ザ・ワールド”をリリース。本作は、どのカルテット のレコードよりも、容赦なく力強いも のとなった。その後19992月には現在までのドラマー、ギラーモ・E・ブラウンが加入。Columbiaからのセカンド、“サレンダード”1999 10月に録音され、翌20005月に発表された。ここでは、ウェアによる美しい4曲に加えて、チャールズ・ロイドの‘スウィート・ジョージア・ブライ ト’が2曲目に、ビーヴァー・ハリスの’アフリカン・ドラムス’がアルバムラストに演奏されている。全曲を通じて、彼の全作品のなかでももっとも穏やかな 精神を感じる作品である。本作は、常に彼のルーツにあるスウィングへの深い造詣を示している好例である。


2002年: ロリンズの“フリーダム・スイート”

Columbia
からの二つのアルバムを リリースした後、20012月にはAUM Fidelityがデイヴィッドとカルテットをスタジオに招いた。これらのセッションは、カルテットにおける新たな音の追求へのデイヴィッドの関心が表れ た好例であり、マシュー・シップをシンセサイザーに起用した初めての作品でもある。この意欲作“コリドールズ&パラレルズ”2001年にリリースされた。
その後まもない2002 年春、SF Jazz organizationはソニー・ロリンズの“フリーダム・スイート”をデイヴィッドにアレンジさせるべく招いた。このとき7月のスタジオ録音は、 200210月にAUM Fidelityからリリースされるものである。「ソニーと僕のつながりを示すには最高の機会だよ」ウェアは説明する。「いかにある世代の上に次の世代が つくられていくのか、ジャズっていう音楽の全体の流れの中で世代間の関係がいかに成立してるかってことを示すにはいい機会だね」
イヴィッドの技 術は、ソニーらジャズをつくり上げた上の世代から多大なる影響を受けて生まれたものだが、オリジナルの音からは進展をみせている。さら に、彼の技術はサクソフォンのみに留まらない。マシュー・シップは、作曲家としてのデイヴィッドの才能を披露するために、ThirstyEarBlue Seriesコレクションにレコード制作への強い希望を表した。そうして生まれたのが、2003 “スレッド”である。ほとんどの曲で、カルテットに加 えストリングスのセットで、ヴァイオリンにダニエル・バーナード・ルーマン、ヴィオラにマット・マネリ、シップがシンセサイザーを担当している。完成した 音は、精密で映画的なリズムと主旋律で構成されたものとなった。これは、ジャズにおいて室内学の音を出しながら、クラシックの感覚を如実に表している。い くつかの曲ではウェアはサックスを吹いていないが、そこでは作曲における芸術家としての彼の技術をみることができる。


2004年: ライブ・アルバム

15年以上ものあいだ、カル テットはヨーロッパとアメリカをツアーしプレイし続けた。驚くほど莫大な量の批評が彼らのライブを賞賛したにもかかわらず、デ イヴィッド・S ・ウェア・カルテットはライブ音源をリリースしていなかった。それまでの時間を埋め合わせるかのごとく、“ライブ・イン・ザ・ワールド”ThirstyEar)が2004年にリリースされた。3つの異なるショウの音源をコンパイルしたもので、それぞれドラマーがディスク毎に異なる。ピア ノのマシュー・シップ、べースのウィリアム・パーカーは全ての音源で演奏している。
ディスク1は初期の音源で、1998年のスイスのキアッソでの ショー、ドラムはスージー・イバラだ。曲目の多くは1998年のColumbiaでのデ ビューアルバムメゴー・シー・ザ・ワールドモからのものである。このショウの音源は、ディスク1の全曲と、ディスク23のボーナス・トラックにも収録さ れている。
ディスク2は、ハミッド・ドレイクをドラムに、イタリアのテルニでの演奏だ。曲目は1988年から1996年の8年の間に出たアルバムから5曲がピックアップされ入り混じっている。
ディスク3は、現ドラマー、ギラーモ・E・ブラウンをドラムに、イタリアのミラノでの2003年の録音であり、ソニーの’フリーダム・スイート’のカヴァーを含む。

写真 Dmitriv Matvejev, Vilnius, 2007.03.24

「僕らはフリーダム・スイートをヨーロッパ中でくりかえし演ったよ」とウェアはいう。「あるコンサートで、今まである方法で演ってたんだけど、その日はもっと スタイルを崩して演ってみようってことになったんだ。テーマの順序や演奏のしかたも変えてみたんだ。そのコンサートの間、僕たちがプレイしているとき何度 も、自分たちが超越的なところに達していたってわかったんだ。ときどきは、どこに達しているかってことを理解できないけど、これは本当に貴重な出来事のひ とつなんだ・・・・超越した音楽ってのは、それ自身を超えていく、演奏自体も超えていく、そして精神的な次元に到達する。これは音楽の経験のなかで、究極 的なことのひとつだといえる、つまり、普遍に到達し、その宇宙的な実在はわれわれすべてを結びつけてくれる。このことでわれわれ、つまり、この地球にすむ すべての人間存在が、本当に兄弟姉妹になれるんだ」


ウェアとバラード


1991年録音のフライト・オブ・アイDIW)のイェスタデイズをかわぎりに、デイヴィッド・S・ウェアは定期的にジャズ・スタンダードの録音を行ってきた。彼は自身の曲でもバラードを作ってきているのだが、バラードの演奏と作曲はジャズの伝統を継承する方法の一つだといえるだろう。2006ThirstyEarからリリースされた“バラード・ウェア1999年に“サレンダード”の数ヶ月前に録音されたバラードのアルバムである。スタンダード(イェスタデイズ枯葉テンダリーエンジェル・アイズ)とオリジナル(ダオゴスペライズドなど)がともに収録された。これらはすべて、以前録音していたナンバーだったが、このアルバムでは、より無駄を省いた感のある熟成された演奏になっている。以前の同じ曲の演奏と聞き比べると、このバンドの本質がどこにあり、ウェアが何を核としているのかが明らかになる。このアルバムを聴けばデイヴィッド・S・ウェア・カルテットのオリジナリティ、そして同時に、ジャズの伝統の継承が理解される。一方で、ウェアは、繰り返し演奏されてきて、あらゆる可能性が検討されたはずのスタンダードにおいて強烈なオリジナリティを発揮する。また一方では、ウェアが作曲したバラードはジャズのスタンダード・レパートリーに調和する。次世代の新しいスタンダードの担い手なのだ。

作曲家としてのデイヴィッド・S・ウェアの活躍は最新のアルバムリナンシエーション2007年、AUM Fidelity)に明らかだ。このアルバムは2006年、ニュー・ヨーク・ヴィジョン・フェスティヴァルでライブ録音された。新しいオリジナル曲、リナンシエーション・スイートでは、ウェアのソロとシップ/パーカー/ブラウンのトリオ、ウェア/ブラウンのデュオなどのインタープレイが続き、ウェアはカルテットの様々なポテンシャルを探究している。同時に、ライブ独特のカルテットが総動員される演奏もあるのが、コンサートならではで非常に魅力的だ。
このコンサートでは、ウェアのオリジナル、
ガネッシュ・サウンドで始まって同じ曲で終わる。ウェアのスピリチュアルな立場を象徴しているこの曲は、どことなくブルージーで、アフロ・アメリカン的な音楽的系譜が汲み取れる。



2007年:ラスト・ライブ

このコンサートはカルテットのアメリカでのラストライブと発表された。
2007年の夏、マシュー・シップの代わりにギタリスト、ジョー・モリスが入り、メンバーの入れ替えによってニュー・カルテットが結成された。ピアノからギターへの移行、そしてジョー・モリスのユニークなスタイルによってニュー・カルテットは新しいサウンドを生み出すだろうし、メンバー間の関係性やバンドのあり方自体も変わるに違いない。しかし、新しいサウンドには新しい曲が必要である。この変化に対して、作曲家としてのウェアはいかなる選択をとるのか、20年前から続けている作曲はどのように変化していくことになるのか、今後が期待される。

ジャズの伝統と革新のはざまで、ロリンズらのバックアップを糧にしつつ、カルテット、ソロ、あるいはストリング・アンサンブルという様々なやり方でDS・ウェアはクリエイティヴィティの果てない探究を続けている。